昔話

 それは人生最大の恐怖だった。三歳だったか、四歳だったかの僕は、風邪にかかる。幼少時から、一度何かに熱中すると抜け出せない性格だった僕は、病院に行こうという家族の説得に応じず、無邪気に電車のおもちゃで遊んでいたのだった。それがあの恐怖体験の引き金になるとも知らずに……。
 僕は風邪を拗らせてしまった。慌てて病院に駆け込んだときには時すでに遅し。生まれて間もない弟1に風邪をうつした上に、二人揃って肺炎と診断され入院することになる。その後の出来事が印象的過ぎて、その時の詳しい経緯は覚えていない。きっとこんなやり取りだったと予想される。


医者「入院ですね。点滴も打っときましょう」

 
母「点滴ですか」


医者「弟さんの方も一緒に」


母「血管細すぎませんか?」


医者「なんとか大丈夫でしょう」


ひだち「ねぇねぇ。てんてきってなぁに?」


母「血管に針を刺して栄養を入れるの」


ひだち「!!??


 母は正直な人間だった。いかんせん正直すぎたのかもしれない。幼い僕は恐怖におののき、だいぶ抵抗したんだろう。僕の記憶は両足を太った看護婦さんが体重をかけて抑えているところから始まる。


ひだち「〜〜〜〜!!」


看護婦さん「ほらキツネさんだよー」


 横にいる別の看護婦さんが、折り紙で気を紛らわそうとしてくれるが意味は無い。体の自由を封じられている上、母はその場にいなかったという不安。(後年尋ねてみたら、弟の点滴を見守るためだったらしい)なにより、その横で禍禍しい注射針がキラリと光った瞬間に、僕はパニックに陥った。


看護婦さん「大丈夫だよー。どうしたのー」


ひだち「足を! 足を離してーー!!」


看護婦さん「……」


ひだち(うわっ!! 笑顔で無視したしっ!!)


 僕の記憶はここで終わる。ただ、子供の血管はやはり細かったらしい。嫌がる幼児に点滴の準備を施すのはよっぽど骨だったことだろう。
 これが原因かどうか定かではないが、僕は未だに注射が駄目だ。今日は予防接種に行ってきたのだが、二日前くらいかから僕の精神状態は穏やかではなかった。なにかに集中しようと思っても、待合室で注射の恐怖におびえるイメージがあまりにリアルに頭の中に蘇り、ひだちさーんと呼ばれて病室に入ってみれば、そこには見たことも無い巨大な注射器が―― きゃー!!
 空想の中で七回は予防接種を受けた。昨日は恐怖を紛らわすために「亡国のイージス」を読みふけり、今日も授業に身ははいらない。帰ってからは、恐怖のために口から絶えず笑いがこぼれ、足腰が立たないっ! 我ながら情けない。


弟2「そんな歳になって注射を怖がるなんて、大人がネズミを怖がるようなもんだね」
ひだち「なんでそこでネズミが出てくるのかわからないけど、怖いものは怖いんだからしょうがないじゃないか」